マルチプル推定: 対象企業と類似企業
マルチプル法は、企業価値評価において広く使用される手法です。この方法では、企業価値を財務指標の定数倍とするモデルを仮定します。 この定数倍率を「マルチプル」と呼び、類似企業の公開情報や買収取引から得られるマルチプルをベンチマークに対象企業のマルチプルを設定し、企業価値を算出します。
このマルチプル設定にあたっては、対象企業を、類似企業売買取引における「最も典型的な会社」として、類似企業のマルチプルの代表値を選びたいのですが、特に非公開株取引の場合、取引の情報は入手しづらく、せいぜい10社から20社ほどのデータしか集められないことが一般的です。 同じ業界で、同様の規模や成長率を持つ上場企業は限られており、最近の買収事例も数少ないかもしれません。 このような状況下で、アナリストは利用可能な限られた10社などのデータから、対象企業が属する「市場全体」の「典型的な」マルチプルを推定する必要があります。
限られたサンプルから得られる情報を最大限に活用し、市場全体のパラメータを推定し企業評価のマルチプルを選択することが、合理的な企業価値評価につながるため、 サンプルの類似企業の情報から母集団(市場全体)代表値を推定する指標の選択(平均値かメディアンか)が重要な論点になります。
マルチプル算出の手順
手順は以下の通りです。
- 1. 類似企業の選択
- 業種や人員数や売上といった会社規模、拠点や成長率といった点を加味して、サンプル企業のリストを作ります。
- 2. 情報収集とサンプル企業のマルチプルの算出
- サンプル企業の売上や調整後EBITDA、EVといった情報を集め、マルチプルを算出します。マルチプルには売上高マルチプルなど何種類かの種類があります。評価する企業の特性などに応じて種類を選びます。
- 3. マルチプルの決定
- 異常値などサンプルの傾向を確認し、母集団の代表値の推定として標本の平均値やメジアンなどを対象企業のマルチプルとして選びます。本記事は、この両者の頑健性を比較します。
Average vs Median
繰り返しになりますが、手順2において、集めたサンプル企業の情報から得たマルチプルは、あくまで「標本」です。したがって、標本の統計値から、入手できなかった情報も含まれる集団(=母集団)の特性値すなわち母数を推定するにあたって、頑健なパラメータを選ぶべきと考えます。 平均値は単純ですが、外れ値によって容易に歪むことで推定値が歪む可能性があり、メジアンは一般により頑健だ、といわれます。
これを確かめるために簡単なシミュレーションをしてみましょう。母集団のマルチプルが母数 $ \mu = 2 $, $ \sigma = 0.75 $ の対数正規分布に従うとして、10社をサンプリングします。サンプリングした10社の平均値とメジアンを求め、これを10万回繰り返して比べます。
平均値とメジアンの真値(母数)は、
母集団の分布はこのような見た目です。そこそこ落ち着いた業界だとマルチプルの水準もばらつきもこのくらい、スタートアップやソフトウェア業界だと水準は高く、ばらつきももっとあるのではないかと思います。
シミュレーションの結果①(ノイズなし)
10万回の試行にノイズを加えないシミュレーションをした結果です。
平均値とメジアンを25パーセンタイルと75パーセンタイルで比較して、平均値の方は真値に対して-19.5%から+14.8%くらいに収まっているのに対して、 メジアンは真値に対して-16.6%から+21.4%の相対誤差でした。
代表値 | 真値 | 25%パーセンタイル | 75%パーセンタイル |
平均値 | 9.8 | 7.8 | 11.2 |
メジアン | 7.4 | 6.2 | 8.9 |
シミュレーションの結果②(ノイズあり)
10社サンプルしたうち、2社が本来入るべきではない会社(ノイズ)であると仮定して10万回シミュレーションをした結果です。
ノイズの企業は、マルチプル2から50を一様分布からサンプリングしました。
結果は先ほどと同様に25パーセンタイルと75パーセンタイルで比較して、平均値の方は真値に対して+10.9%から+52.2%くらいに収まっているのに対して、 メジアンは真値に対して-2.7%から+46.8%の相対誤差でした。
代表値 | 真値 | 25%パーセンタイル | 75%パーセンタイル |
平均値 | 9.8 | 10.9 | 14.9 |
メジアン | 7.4 | 7.2 | 10.8 |
結論
業界的には、メジアンは頑健という一般論に従い、メジアンが好まれると言われていますが、今回シミュレーションした前提の範囲では、平均値とメジアンに頑健性の観点で明確な差が観察できず、どちらが良いかという結論を出せませんでした。
マルチプル法の精度を上げたところでトランザクションでの値決めは交渉次第…という部分があるので、あまり厳密さを求める必要はないのかもしれませんが、理論上の前提の置き方と実務の橋渡しは引き続き、学んでいきたいと思います。